| 古伊万里 |
古伊万里とは、江戸時代に肥前(今の佐賀県一帯)で作られた磁器のことを 指し、大きく分類すると初期伊万里・古九谷様式・柿右衛門様式・鍋島様式・古伊万里様式に分かれます。 豊臣秀吉の朝鮮出兵で連れてこられた李朝の陶工によって、17世紀初頭、中国 明朝末の景徳鎮を模倣しながら有田で始まった磁器が初期伊万里(江戸初期の 古伊万里からそう呼ぶ)です。 やがて、緑・紫・黄・赤・藍の五彩の濃い色をたっぷりと用いた力強いタッチ で描かれた古九谷様式の古伊万里が登場し、当時の武家文化と結びつき茶懐石の道具として重宝されました。 鎖国状態の日本において、唯一貿易を許されていたオランダ商人が、1657年に江戸幕府から伊万里焼の輸出を許可されたそのころから、薄手の器体に 鮮やかな色彩で繊細な文様を描いた柿右衛門様式の古伊万里が、ヨーロッパへ輸出されました。 以来、18世紀後半までヨーロッパへ輸出された古伊万里は、今までに見たことのないその美しさでヨーロッパ各地の領主たちに東洋趣味をもたらしました。 また、17世紀後半から幕末にかけて鍋島藩では、厳重な管理体制のもと藩主が将軍や特定の大名への贈答品として藩窯で作らせていた鍋島様式の古伊万里が存在しています。 江戸中期から輸出が衰退し始めると、古伊万里の需要は国内へ移り変わり、 日本人好みの文様の食器が作り始められました。 金彩と赤絵で彩られた豪華絢爛な金襴手と呼ばれる古伊万里が多くの茶人や 数寄者の特別注文によって作られました。 また一方では、飯碗や蕎麦猪口などの器が作られるようになり、江戸の大衆 文化の成熟とともに国内全土へと普及していきました。 |
| 九谷焼 |
九谷焼は、17世紀中ごろ加賀藩三代藩主の前田利常が、加賀の国は江沼群の九谷村で子息の前田利治が藩主を務める大聖寺藩(だいしょうじはん)に初めてやきものを作らせたことからその地名に因んで九谷焼と呼び、18世紀初めまで製陶を続けたとされています。 19世紀初めになると各地で九谷焼の窯が開かれ、これらを総称して再興九谷と呼んでいます。 京焼の名陶工である青木木米(あおき もくべい)を招き指導をさせ、藩内で使用する九谷焼を生産するまでに回復した金沢の春日山窯(文化4年〜文政初年頃/1807-20頃)。 藩の保護のもと春日山窯や平戸・京都から陶工を招き、九谷焼の量産に成功した若杉窯(文化2年〜明治8年/1805-75)。 大聖寺の豪商が開窯し、青手古九谷の技法を踏襲し青九谷と呼ばれる九谷焼を製陶した吉田屋窯(文政7年〜天保2年/1824-31)。 吉田屋を買収再興し、飯田屋八郎右衛門に赤絵細描で中国を題材にした文様(八郎手)を描かせた宮本屋窯(天保3年〜安政6年/1832-59)。 楽焼を得意とした粟生屋源右衛門(あおや げんえもん)や赤絵細描に色絵と金彩を加えた九谷庄三(くたに しょうざ)を陶画工として働かせ、九谷焼の業績を上げた小野窯(文政2年〜明治5年頃/1819-72頃)。 大聖寺藩の贈答品製作から始まり、吉田屋の青九谷を踏襲した松山窯(嘉永元年〜明治5年/1848-72頃)などがありました。 また、大聖寺藩は宮本屋窯を買収して九谷本窯と称し、京都の名陶工である永楽和全(えいらく わぜん)を招き朝鮮、伊賀、唐津の写しから金襴手や独自の布目まで作らせました。(慶応元年〜明治3年/1865-1870) 江戸時代より発展してきた各地の九谷焼の窯は、明治維新に入って藩の保護や援助がなくなると一時的に衰退しましたが、明治政府の国力増強の手段として海外の万博への出品や輸出によって世界に「ジャパン・クタニ」の名で知られました。 一方では、輸出用の華麗な磁器に反対する徳田八十吉(とくだ やそきち)らによって古九谷調の九谷焼が現れてきたり、庶民が使用する赤絵の雑器が多く作られました。 大正末期にヨーロッパから新しい芸術文化の思潮が来ると、芸術品としての磁器を作る陶芸家が生まれ、昭和に入ると創造的で個性的な作家が次々に現れ、九谷焼の伝統が次第に改革され新しい九谷焼が展開されました。 また、大正時代から昭和前期にかけては、武士や物語をモチーフにした細描で複雑な色合いの雑器が多くなります。 |
| 京焼 |
京焼とは、桃山時代から江戸前期にかけて作られた野々村仁清(ののむら にんせい)以前の楽焼を除く色絵陶器のことを指す「初期京焼」と、野々村仁清・尾形乾山(おがた けんざん)以降、江戸中期から幕末にかけて作られた色絵陶器の「古清水」、および江戸中期から始まり幕末・明治に「清水焼」と呼ぶようになった色絵磁器の総称です。 17世紀以前、京都の茶人たちは遠方の窯に好みの道具を注文していましたが、意向がなかなか通じないことから瀬戸の陶工を招いて粟田口に窯を築き、銹絵(さびえ)や織部風のやきものを作らせました。 茶人の嗜好が直接反映された京焼は、茶人の要求に応えるために志野・織部・唐津・信楽(しがらき)・備前といった他のやきものの技法を吸収し自らの作風に取り込んでいきました。 茶人のどんな注文にも応えられる技術や豊富な知識が、京焼の水準の高さと名工による創意工夫に満ちた独創的な作風が生まれた要因であります。 なかでも京焼最古の窯とされる粟田口焼や、音羽焼・清閑寺焼・御菩薩焼(みぞろやき)など、清水・粟田などで焼かれた色絵陶器を古清水と呼びます。 古清水の特徴は、緑釉と藍釉を基本に銹釉や金彩・赤絵などを加え、まるで蒔絵のように絵の具を盛り上げるようにして幾何学文様や松竹梅・菊・牡丹などの草花の文様を描いていることです。 いずれの窯も茶陶だけに留まらず、従来漆器で作られていた重箱や硯箱から虫籠のような誰も考えもしなかった物まで作り、京焼ならではの美的センスによって軽快にして優雅な世界を作り上げています。 また、江戸時代300年の間、京焼の名工が数多く輩出されました。 その代表は、茶碗の傑作を生み出した天才の本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)、京都で初めて磁器の焼成に成功し、中国明時代の呉須赤絵を中心に古染付の写しを焼いた奥田頴川(おくだ えいせん)、頴川門下で中国釉法を学び文人趣味を体現した青木木米(あおき もくべい)、同じく頴川門下で仁清・乾山・楽焼の写しを得意とした仁阿弥道八(にんなみ どうはち)、洗練された茶陶の永楽様式を確立した永楽保全(えいらく ほうぜん)・和全(わぜん)親子たちです。 明治に入ると、新しい時代を反映して海外を意識した京焼を制作する陶工や、科学的な手法による新しい釉薬・色彩を研究する陶工が現れました。 豪快な作風の染付や赤絵を制作した三代清水六兵衛(きよみず ろくべい)、白磁染付などの品格がある作品を作り美術陶器の先駆者となった三代清風与平(せいふうよへい)、華麗で精緻な色絵陶器を制作した七代錦光山宗兵衛(きんこうざん そうべい)と初代伊東陶山、中国明清時代の彩色技法を磁器に応用したり釉薬透明紋を開発した初代三浦竹泉がその代表的な京焼の名工です。 また、粟田口焼は色絵陶器を製造する粟田焼へと発展し、明治時代に入ると海外から「京薩摩」の名で評価され輸出の黄金時代を迎えましたが、昭和初期に貿易不振から衰退の道を辿りました。 大正・昭和時代は、科学的な手法による新しい釉薬・色彩の京焼が開花した時代です。 芸術としての陶芸の確立を抱いた清水六和(きよみず ろくわ)、華麗な金銀彩の世界を創り出した富本憲吉、民芸運動の推進者として剛健実直な作風を展開した河井寛次郎、京焼銹絵の技法をもとに現代の琳派意匠を大成した六代清水六兵衛などです。
冒頭で登場する野々村仁清と尾形乾山については、京焼を代表する別格な存在のためこちらで紹介いたします。 野々村仁清は、本名の野々村清右衛門(ののむら せいえもん)の「清」と仁和寺(にんなじ)の「仁」から「仁清」と名乗った京焼を代表する江戸初期の陶工であります。 仁清は、17世紀中ごろに仁和寺の門前に窯を築いて御室焼(おむろやき)を創り始め、茶の世界をリードしていた茶匠の金森宗和(かなもり そうわ)好みの瀟洒な茶器を生産し、宗和自ら茶席で新作の御室焼を使い斡旋をしたことで名声を手に入れました。 仁清は、唐物や高麗物から国内各地のやきものを単に写すだけに留まらず卓越したセンスで独自の作風に仕上げ、後に雅びで洗練された京焼色絵の装飾陶器を完成させて京焼の他の窯に大きな影響を与えました。 尾形乾山は、大呉服商の父の死後、深省と名乗って学問三昧の隠棲生活をしていたころに晩年の仁清と出会い茶入技法を伝授され、やがて乾山を名乗って陶器の制作を始めました。 海外のやきものに興味を持ちながら作陶をした乾山は、茶席の主役であった京焼茶入が時代遅れと感じると、懐石具の生産に主力を注ぎ様々なアイデアを盛り込んでいきました。 そのひとつに、実兄の絵師である尾形光琳(おがた こうりん)に銹絵で人物・山水・草花を描いてもらい乾山が書を書いた四角い平皿があります。 斬新な文様を描いた乾山の懐石具は、京都の町人にもてはやされたと言われ、後に日本美の典型と呼ばれた琳派文様の原形となりました。 |